先日事務所にキャンベル・スープ缶とその隣にバナナが不自然に置いてあったものですから、ああなるほどなと、これはアンディーウォーホルへのオマージュなんだなと、そう思って猪飼に聞いてみたのですが、全く狙っていないとの事でした。 今日はそんなマルチな才能を発揮したアンディーウォーホルについて私横内がご紹介致したいと思います。

アンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928年8月6日 – 1987年2月22日)はアメリカの画家・版画家・芸術家でポップアートの旗手。銀髪のカツラをトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けたマルチ・アーティスト。本名はアンドリュー・ヴァーコラ(Andrew Varchola)。

生い立ち: 誕生
ペンシルベニア州 ピッツバーグでスロバキア (当時はチェコスロバキア) の移民の子として生まれます (出生日や出生地には諸説あるようです)。体は虚弱で、早い時期から芸術の才能を現しました。肉体労働者だった父は1942年、アンディが14歳のときに死去、その後は母のジュリア一人に育てられます。カーネギー工科大学に進学し広告芸術を学び1949年に卒業。

ポップアートの誕生: 20代 – 30代前半
大学卒業後はニューヨークへ移り『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など雑誌の広告やイラストで知られた。新聞広告美術の部門で「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受賞し、商業デザイナー・イラストレーターとして成功しますが、同時に注文主の要望に応えイラストの修正に追われ、私生活では対人関係の痛手を受けるなど苦悩の時期でもありました。彼は後に、ただ正確に映すテレビ映像のように内面を捨て表層を追うことに徹する道を選ぶこととなります。この間に、線画にのせたインクを紙に転写する「ブロッテド・ライン」という大量印刷に向いた手法を発明します。

1960年、彼はイラストレーションの世界を捨て、ファインアートの世界へ移ります。『バットマン』、『ディック・トレーシー』、『スーパーマン』など、コミックをモチーフに一連の作品を制作しますが、契約していたレオ・キャステリ・ギャラリーで、同様にアメリカン・コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタインのポップイラストレーション作品に触れて以降、この主題からは手を引いてしまった様です。当時アメリカは目覚ましい経済発展のさなかにありました。

身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を描きます。ポップアートの誕生です。1962年にはシルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになります。モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいました。マリリン・モンローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『ナイアガラ』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、以後これを色違いにして大量生産しつづけました。ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真も使用しました。

ファクトリーでの制作活動:
1964年(35歳)からはニューヨークにファクトリー (The Factory、工場の意) と呼ばれるスタジオを構えます。ファクトリーはアルミフォイルと銀色の絵具で覆われた空間であり、あたかも工場で大量生産するかのように作品を制作することをイメージして造られました。彼はここでアート・ワーカー(art worker; 芸術労働者の意)を雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を制作する。ファクトリーはミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ)、ルー・リード(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)、トルーマン・カポーティ(作家)、イーディー・セジウィック(モデル)などアーティストの集まる場となります。

1965年(37歳)、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」(The Velvet Underground; 以下 V.U. と略) のデビューアルバムのプロデュースを行います。
ウォーホルは V.U. の演奏を聴き共作を申し込み、女優兼モデルのニコを引き合わせ加入させる。1967年3月発売の彼らのデビュー作『The Velvet Underground & Nico』(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ)では、プロデュースとジャケットデザインを手掛けました。シルクスクリーンによる「バナナ」を描いたレコードジャケットは有名となりました。前衛的音楽のためアルバムはあまり売れませんでしたが、後に再評価されました。ウォーホルは V.U. の楽曲を映画のサウンドトラックとしても用いました。セカンドアルバム制作の頃にはウォーホルとの関係も終わります。彼らとの関係は、映画『ルー・リード: ロックン・ロール・ハート / Lou Reed: Rock and Roll Heart』に描かれています。またウォーホルの死後、メンバーのリードとケイルは再結成し『Songs For Drella』(1990年)という追悼曲を作成しました(Drella はドラキュラとシンデレラを足した造語であり、彼らによるウォーホルの印象を表したという)。

芸術の世界の外では、アンディ・ウォーホルはこの時期に名声や有名人について語った言葉(”15 minutes of fame”)で有名になりました。1968年にウォーホルは「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」と述べました。1970年代末に彼は「60年代の予言はついに現実になった」と話しましたが、マスコミからこの言葉について毎回尋ねられることにうんざりし、このフレーズを「15分で誰でも有名人になれるだろう(In 15 minutes everybody will be famous.)」と言い換え、以後回答を断るようになりました。
狙撃事件とそれ以降: 40代 没
1968年6月3日 (40歳)、ウォーホルは「全男性抹殺団(S.C.U.M. /Society for Cutting Up Men)」のメンバーだったバレリー・ソラナスという女性に拳銃で狙撃されます。ソラナスはファクトリーの常連であり、ウォーホルに自作の映画脚本を渡したりウォーホルの映画に出演したこともあったそうです。三発発射された弾丸のうち最初の二発は外れ、三発目が左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通しました。彼は重体となるが一命をとりとめる。この事件は「アンディ・ウォーホルを撃った女 / I Shot Andy Warhol」として1995年に映画化されました。

1970年代から1980年代は社交界から依頼を受け、ポートレイトのシルクスクリーンプリントを多数制作する。1970年には「ライフ」誌によってビートルズとともに「1960年代にもっとも影響力のあった人物」として選ばれます。1972年、ニクソンの訪中にあわせて毛沢東のポートレイトを制作しました。同年、母がピッツバーグで死去。世界中で個展を開催するようになります。

1974年には初来日。1982年から1986年にかけては災害や神話をモチーフとした一連の作品を作成します。最後の作品は1986年のレーニンのポートレイトなど。


1983年から1984年にかけて、TDKビデオカセットテープのCMにも出演。『イマ人を刺激する』と題して、右肩にテレビのテストパターン(カラーバー)を持ちながら「アカ、ミドォリィ、アオゥ、グンジョウイロゥ…キデイィ(キレイ)」とたどたどしい日本語を発するだけでしたが、視聴者にインパクトを与えました。拡大したテストパターンを背景に、猫の格好をした女性が寄り添うバージョンもありました。

1987年2月21日、ニューヨークのコーネル医療センターで胆嚢手術を受けるも翌22日、容態が急変し心臓発作で死去。58歳。生涯独身だった。ピッツバーグの聖ヨハネ・バプテスト・カトリック共同墓地に埋葬されています。

ピッツバーグのダウンタウンからアルゲイニー川を渡った対岸、ノース・ショア地区にはアンディ・ウォーホル美術館があります。一人の芸術家に特化した美術館としてはアメリカ最大だそうです。

最後にアンディウォーホルが終始ハンバーガーを食べるシュールな映像をどうぞ(笑)

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