岡本太郎のように純粋に生きたいアルバトロデザイン代表 猪飼です。 昔、赤瀬川源平の芸術論を本で触れて、「芸術とはこんなに論理的なのか・・・」と認知していた所に、岡本太郎の「今日の芸術」を読んで、芸術の見解がまるで異なり、なぁんだ、やはり千差万別なのか! と思ったものです。 岡本太郎から強く感じられたのは、純粋さであり、勢いでした。 読んでいて矛盾していたり、反感を感じる部分がありながらも、結局は岡本太郎の強い純粋さに憧れてしまう。 そんな今の時代にはなかなかいない本当に熱いアーティストでした。 そんな岡本太郎先生の作品を本日はまとめてみたいと思います。 

1.岡本太郎と岡本敏子

岡本敏子あっての、岡本太郎とはよく言われ、岡本太郎との関係は複雑でも生涯よきパートナーであったことは間違いありません。 最終的に肩書き上は妻ではなく、養女として岡本姓を受け、岡本太郎生前も死後も、太郎の為にその人生を全うしました。 世間における岡本太郎の評価を決定付け、作品製作にも多大な貢献をしましたが、なによりも最大の貢献は岡本太郎の心の拠り所だったのではないかと思います。

強い精神力をもつ岡本太郎ですが、新しい芸術の形を築く過程では激しいバッシングもつき物でした。 時に酷く落ち込み、自分の作品を観たくもなくなるといつも戻るのが岡本敏子の所だったと言います。 大きなものを作り上げる男には、どんな大きなものもいつも笑顔で包み込める器をもった敏子の存在が必要不可欠だったといえます。 岡本太郎が行き詰った時に、「もっと違うものも作ってみればどう?」「貴方の芸術をもっと知ってもらいたいのなら、テレビやメディアに出てもいいんですよ。」等と、岡本太郎の人生の節々で的確な助言を与えていたのも彼女でした。

「わたくしは恋する女なの。岡本太郎さんに惚れていて、どんなに叫んでもたりない。締めつけられるような熱い想いに乗って、何でもできるの。」 という岡本敏子の言葉どおり、岡本敏子は岡本太郎の死後もその作品、思いを世界に広げるために奮闘します。 50年以上共に寄り添った夫婦(正確には養子ですが)の揺るがない愛には感服いたします。

因みに岡本敏子が妻ではなく、養女となったいきさつは諸説あります。 まず、岡本太郎は徹底した独身主義者でした。 これは自由な恋愛が許されるフランスで、(絵を描く理由を見つけるために)哲学・社会学・精神病理学・民俗学などを学ぶ為に10年間過ごしたというバックグラウンドもあるものの、直接的な原因は太郎の母親にあると言われています。 岡本太郎の母親は非常に自由な芸術家で、子育ても家事もそっちのけで作品を作り、恋愛も自由に行い、父親も住む自分の家に若い男を呼んでは住まわせていたそうです。 結婚というものを到底理解できなかった岡本太郎は、物心つく頃には自分は生涯独身主義で生きようと決心します。

しかし、秘書として現れた敏子との出会いで岡本太郎は戸惑います。 敏子は大切な女性であるのに、秘書である以上パーティーや晩餐会に身内として隣に呼ぶことができないのが耐えられなかったそうです。 岡本太郎はフェミニストとしても有名で、性別で相手を見下したり、軽視することは絶対に許しませんでした。 太郎にとって、敏子は既に他人としては括りきれない存在だったのでした。 結婚は信じていないが、こんなに世話になっている敏子を身内として扱えないのは嫌だ。 と思った岡本太郎は敏子を養子として迎え、財産の相続も決めたのでした。

 岡本敏子の言葉

2.岡本太郎の生い立ち

1911年、神奈川県の川崎にて岡本太郎は漫画家の岡本一平と、歌人で芸術家のかの子の間に生まれました。 非常にクリエイティブで資産のある家に生まれましたが、お嬢様育ちの母かの子はまったく家庭的な面を持ち合わせておらず、自由に不倫を繰り返していたといいます。 かの子は岡本太郎にしつけをする事も無く、岡本太郎の得意な正確はかの子の強い影響を受けていると言えます。

まるで学校の学問に興味が持てなかった太郎は父親から絵を描くということを学び、美術学校へ進学します。 入学直後、父親の関係でロンドンへの派遣が決まり、どうせなら本場のパリで絵を学びたいという事で、一家揃ってフランスへと引っ越します。 自由で奔放な正確の岡本太郎はフランスの土地に馴染み、すぐにフランス語を覚え、パリの大学にまで進学します。 絵を描くという事自体に限界を覚えた太郎は、描く理由を探す為社会学者のマルセル・モースの元で絵と直接関係の無い思想についての勉強をしました。

因みに両親は太郎よりも一足先に帰国し、太郎の帰国を待たずに母かの子は病気で逝去してしまいます。 ピカソの作品に出会い、今までに無い衝撃を受け、いよいよ本格的に制作活動に入ろうとした太郎自身も戦争に巻き込まれ、急遽フランスより帰国し中国へ出兵させられます。 捕虜になりながらもなんとか帰国し、本格的に芸術活動を始めた太郎は、前衛芸術研究会を立ち上げた頃に岡本敏子と出会いました。


ピカソと岡本太郎

3.岡本太郎の作品と太陽の塔

ピカソとの出会いで完全に芸術の捕らえ方が変わった岡本太郎は、燃える創作意欲を心に次に日本の縄文土器に出会います。 芸術とは、まわりの既成概念にいかにとらわれないで純粋な思いを形にするかだ、と開眼します。 その状態に一番近いのは子供の頃だとし、子供たちの絵を集めて評価したりと、当時の芸術家としては斬新な芸術活動を続けます。

そんな岡本太郎に、中学生でもわかるような芸術啓蒙書を書いてみないかという話がきて、太郎は快諾します。 芸術とは、誰にでもすぐ作れるもので、決して勉強して作るようなものではない!!という熱いメッセージが若者に支持され、ベストセラーとなりました。 痛烈な批判ばかりを受けていた岡本太郎自身も徐々に全国的に認められていきました。 しかし、岡本太郎はまだまだ変人扱いされ、狂った芸術家というイメージが強い存在でした。

そんな中で、岡本太郎の人生を変える話がきました。太陽の塔の制作です。 予算、人選のトラブルで当時の名だたる芸術家、彫刻家は誰も手をつけなかった太陽の塔の話が、流れに流れ、突如当時異端児扱いされていた岡本太郎に振られました。 岡本太郎はこれを快諾するも、当時の万博テーマである「人類の進歩と調和」を全否定し、独自の解釈で制作活動に入ります。 岡本太郎の太陽の塔は賛否両論を呼び、当時の著名人、芸術家から非難を浴びます。 しかし、不気味な太陽の塔は岡本太郎の目論見通り、その強烈なインパクトから永遠に頭に残る、普遍的な万博のシンボルとして機能しました。 最後まで自我を貫いた太陽の塔は、岡本太郎の永遠の代表作となり、日本を代表する芸術家岡本太郎の名前を全国に響き渡らせました。


岡本太郎 作品1935年 コントルポアン


岡本太郎 作品1936年 痛ましき腕


岡本太郎 作品1947年 夜


岡本太郎 作品1949年 重工業


岡本太郎 作品1950年 森の掟


岡本太郎 作品1951年 クリマ


岡本太郎 作品1954年 犬


岡本太郎 作品1962年 装える戦士


岡本太郎 作品1963年 エクセホモ


岡本太郎 作品1966年 若い時計台


岡本太郎 作品1973年 海辺の肖像

 
岡本太郎 作品1974年 若い夢


岡本太郎 作品1981年 遭遇


岡本太郎 作品1983年 動物

岡本太郎 太陽の塔制作風景

岡本太郎 太陽の塔

4.岡本太郎まとめ

岡本太郎は独自の芸術論を作り上げ、新しい芸術を啓蒙し続けました。 母から躾も道徳も学ばなかった男が自分だけを信じて純粋な芸術を追い求める姿に、まわりは反発しながらも惹かれていきました。 頑なで、純粋で、傷つきながらもまわりを省みないで制作していく男に、岡本敏子という見事なパートナーが現れたというのがとても幸せなことだと思います。 二人でいつも子供のように喜んだり、悲しみながら言葉には表せない芸術作品を二人で作っていく毎日こそが「岡本太郎」であり、そういうことを可能にしたのが二人にとっての「芸術」だったのかもしれません。

芸術と言うのは、形がないからこそ、他の事には打ち解けられない人達も柔軟に包み込んでくれるものなのかもしれないな、と岡本夫婦をみていると思ってしまいます。 答えの無い芸術を、二人の生涯をかけて純粋に探し続けた、という事実こそが「岡本太郎」の面白いところであり、岡本作品の醍醐味の一部でもあるのではないかと思います。 こういう事はどんな芸術家にも言えることですが、岡本太郎と岡本敏子は場合はとても純粋で、どこか元気をもらえるような気がする所が好きです。

岡本太郎の世界 1

岡本太郎の世界 2

岡本太郎の世界 3

岡本太郎の世界 4

岡本太郎の世界 5