最後の一本の親知らずを抜いて痛みと闘っているアルバトロデザインの親知らず横内です。新年早々居酒屋に飲みに行った際、偶然隣の席に私の親知らずを抜いて下さった先生が綺麗な女性と二人で飲んでいらっしゃってお声をかけて下さいました。日本は狭いなぁとつくづく思うと同時に羨ましいなと思わざるを得ない出来事でした。さてさて本日は先日アウディの100周年記念で特別展示イベントを行った、日本が誇る前衛的アーティストの草間彌生さんをご紹介したいと思います。


草間 彌生の来歴
1945年、大戦下に疎開してきた画家らが立ち上げた「第一回全信州美術展覧会」で並み居る顔ぶれの中16歳で入選。女学校入学のころから物体の回りにオーラが見え、動植物の会話が聞こえるという幻覚体験が始まり、それを絵画として制作します。松本高等女学校(現:長野県松本蟻ヶ崎高等学校)を卒業後、京都市立美術工芸学校(現:京都市立銅駝美術工芸高等学校)の4年生最終課程に編入して日本画を学び、翌年卒業。50年に日本画作品『猫』が長野県美術展に入選して以後、水彩、グワッシュ、油彩などを使用して発表を開始しました。すでにこのころから作品には、粒子状の点の連なりや、細胞や神経が網目状に拡張していくイメージが現れ、その後の草間の表現の核が見いだせます。50年代初期の作品の、シュルレアリスティックな自動デッサンと抽象画が合体したような作風に、微細な線による無限連鎖の網目図像の全面化が少しずつ加わります。草間は、その幻覚をカンバスに微細に描き込んだり、突起物のついたオブジェや鏡に覆われた部屋を利用するインスタレーションに結びつけて行きました。後に役立つ絵画技法を身につけますが、旧弊な日本画壇に失望し松本の実家へ戻り、寝食も忘れ毎日数十枚以上を描き、没頭します。

 

1952年、地元の松本市公民館(旧:松本市公会堂)で2度の個展を開きます。1度目の折、精神科医の西丸四方(1910年 – 2002年)が立ち寄り感銘し絵を購入。関東精神神経医学学会で紹介するほか、知人でゴッホ研究で有名な精神科医・式場隆三郎が、関東の白木屋などでのつてを紹介される縁を得ます。2度目の個展では松澤宥に賛助出品してもらい、パンフレットに瀧口修造らの寄稿文も掲載されました。
1954年から翌年にかけ、東京で4度の個展。白木屋百貨店ほか、瀧口の関るタケミヤ画廊でも個展。瀧口がニューヨークの第18回国際水彩画ビエンナーレへ彼女を紹介し、渡米の糸口を作ります。この時期、素描のほかにコラージュなども量産していたようです。

「シャングリラの華」(霧島アートの森)1957年に渡米。活動の中心をニューヨークに置き、ドナルド・ジャッドやジョゼフ・コーネルらと親しくなります。絵画のみならず男根状のオブジェを既製品にはりつけた立体作品やインスタレーションを始め、ハプニングと称される過激なパフォーマンスも実行、ヴェネツィア・ビエンナーレにもゲリラ参加し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとりました。平和・反戦運動にも携わります。61年にはソフト・スカルプチャー(布やビニールなど柔らかい素材を使った立体作品)に手を染め、62年のグループ展ではアンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグ、ジョージ・シーガルらとともに作品を発表しました。66年ベネチア・ビエンナーレに参加し、1500個のミラーボール敷き詰めた『ナルシスの庭』を出品。1968年、自作自演の映画『草間の自己消滅』が第4回ベルギー国際短編映画祭に入賞、第2回アン・アーバー映画祭で銀賞受賞。また、第2回メリーランド映画祭でも受賞。ベトナム戦争が激化した60年代末は、反戦を訴える裸体のハプニングをニューヨークなどで何度か行い、警察に拘束されたりもしていたようです。

 

1973年、親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去しました。草間は体調を崩し日本へ帰国後入院します。1978年、処女小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』を発表、1983年、小説『クリストファー男娼窟』で第10回野性時代新人賞を受賞するなど小説家としても活動しています。

 


草間の活動が再び活発になったのは1990年代初頭です。1993年、ヴェネツィア・ビエンナーレに日本代表として参加。世界的に再評価熱が高まりました。