毎日寒いオフィスで机に噛り付いているアルバトロデザイン代表、猪飼です。 何故か年末になると、自分の昔の頃を思い出します。 高校、中学生の頃はどんな年末だったかな、小学生の頃はなにをしていたかな、という感じです。 そこで今回思い出したのがウルトラマンです。昭和の頃のウルトラマンやウルトラQのシリーズはとにかく怖くて、ストーリーも容赦なく残酷だったりしました。 それでも特撮が観たくてストーリーも完全に分からないままじっと観ていたのを思い出します。 あの独特な世界観とじっとりとした恐怖を支えていたのが、深くてどこか悲しみを含んだストーリーや設定、演出だったと思います。 本日はそんな大人の特撮ドラマ、昭和のウルトラシリーズについてです。

1.初期のウルトラシリーズのおもしろいところ
  特撮といえば今や朝の○○レンジャーとか、ゴジラやウルトラマン等子供向け映画というイメージですが、まだCGが主流になるずっと前、膨大な費用のかかる特撮はどこか特殊な位置づけでした。 複数のフィルムを重ねたり、遠近法やミニチュアを使って目を錯覚させたりとかなり実験的な手法で、 ハリウッドの特撮やヨーロッパや世界の実験映像を参考にしつつオリジナルの手法でいかに撮りたい映像を再現できるかを世界が競った時代でした。 特にウルトラシリーズを撮った特撮の神こと円谷英二の率いる円谷プロダクションは常に実験的な手法で次々と世界が驚くクオリティの高い映像を次々と打ち出していきました。 こうした華やかで巨額がかかる特撮の裏には、斬新でメッセージ性の非常に強い設定とストーリーというバックグラウンドがありました。 戦後の高度成長期の日本をバックグラウンドに、戦争の非情、公害問題や自然破壊、アメリカを中心とした世界という外部への恐怖と憧れが強くストーリーに反映されています。 後にブレイクするウルトラマンのシリーズでも、主人公のハヤタ隊員は初回で命を落とし、宇宙人との共生によって命を授かる、というようにストーリーはかなり刺激的です。 また、ウルトラシリーズ初期の頃はストーリーに社会的な問題も多く含まれ、未公開となった作品がいくつも存在します。 特撮だけでなく、こうした背景がウルトラシリーズの人気の基盤を支えていたともいえます。
 ウルトラQは怪獣や宇宙人は出現しますが、ウルトラマンはまだ出てきません。 今思うと、ウルトラマンが助けに来ないのに怪獣がでるという設定の方が逆に展開が楽しみな感じもしますね。
 さてウルトラマンが出ないウルトラシリーズ、ウルトラQですが、宇宙人や怪人、地底人や怪獣に人間が関わる事で事件が起きていくというパターンがベースで構成され、正義のヒーローがいない分毎度考えさせられるような練りこまれたストーリー展開をします。 まずはウルトラシリーズができるまでの歴史を振り返ってみましょう。

2.ウルトラシリーズの歴史 特撮の神様 円谷英二からウルトラQができるまで
 酒や味噌など発酵製品をつくる麹屋という商家に生まれた円谷英二は、子供の頃に連れられてみにいった飛行機の公開飛行に感動し、飛行機のプラモデルやメカニズムに強い興味を持ちます。 後に成長し上京した円谷少年は一度は機械製作所に就職するも、パイロットの夢を捨てずにすぐに退社、日本飛行機学校へ入学します。 しかし円谷英二が16歳の時、学校が帝都訪問飛行に失敗、一機しか無い飛行機が墜落し、教官であった玉井清太郎の死によって学校は廃校となり夢は破れ、退学します。 その後映画業界へ進み、当時怖がって誰もやりたがらなかった飛行機の空中撮影を円谷は喜んで引き受け、一躍カメラマンに抜擢されます。 しかし1921年当時20歳となり兵役につき、当時起きた関東大震災をうけて各プロダクションは京都へ移動、円谷も後を追って京都へ向かいます。

 カメラマンとなった円谷は発明家時代の自慢の機転で次々と新しい技法で実験的な撮影を撮り、一躍有名になります。画面が丸く終わるアイリス・イン(アウト)や、フェイド・イン(アウト)は円谷が日本で初めて撮りました。 ミニチュアセットとの合成やスモークを映画に取り入れるなど、後の円谷の原型となる実験を重ねました。 日々の実験と彼の協力者への酒代で毎月給料は底をついていたそうです。

 1933年、アメリカの「キングコング」が上映されます。 これを観た円谷英二は衝撃を受け、フィルムを取り寄せて1コマ1コマ分析しました。  自作のクレーンを組み上げて初めてクレーン撮影に成功したりと、次々と新しい特殊撮影を発明していく円谷は、時に新しすぎる手法で配給会社と対立しつつも確実に周りの注目を受けていきます。

 戦時中も日本やドイツの依頼により戦闘機などの兵器の映像を撮り、戦後の世界的な特殊撮影ブームで一躍日本代表として名を上げるも、この戦争関連の映像を撮った事により東宝から追放されます。 何度も様々なプロダクションを転々としてきた円谷はフリーとして映画を撮ります。 後にまた東宝にもどり、現在の東宝マークを作ったり、世界的な大ヒット作品となる「ゴジラ」の製作など、東宝に大きな功績を残します。 「ゴジラ」の完成した時、円谷は既に53歳でした。この「ゴジラ」と続編にあたる「ゴジラの逆襲」を皮切りに、『獣人雪男』『地球防衛軍』『大怪獣バラン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『キングコング対ゴジラ』などの怪獣・SF映画のすべてにおいて特撮技術を監督します。
 円谷の撮りたい映像は膨大な予算と巨大なスタジオでもまかないきれず、合成処理や人形撮影は自宅敷地内に特殊技術研究所を開設したそうです。

 1963年、62歳で東宝との専属契約を解除した円谷はいよいよテレビ界へ乗り出します。 ここで円谷特技プロ初のテレビ作品となったのが『ウルトラQ』でした。

東宝特撮 マーチ集 (伊福部 昭)

今聴いてもオシャレなウルトラQのオープニング

4.ウルトラシリーズのはじまり
 東宝を脱し、テレビ界へと進出した円谷英二はテレビ初作品としてフジテレビでの宇宙生物の話の制作がきまり、世界に2台しかない高性能光学撮影機を当時4000万円で密かに購入した。(制作予算は7千万程度だった) しかしフジテレビとの制作の話は破談し、困り果てたところにTBSにいた長男円谷一の誘いでなんとかTBSと契約します。 TBSは世界の円谷プロの知名度を使い、海外での販売で回収するつもりで巨額の予算を支払い、円谷と無事契約します。 当時「UNBALANCE」というタイトルでのSFドラマを企画していましたが、既に3本撮られた後、TBSのプロデューサーの意向で怪獣の出現するドラマへと路線修正され、当時流行り語だったウルトラC (東京オリンピックで当時最高難易度であるCのなかでも、特に難しいという意味を伝える為NHKの鈴木アナウンサーが実況で使用した言葉が流行った) という言葉をもじってできたものでした。

 巨額な制作費をつぎこんだウルトラQはTBSにとっても大きな賭けでした。 テレビ放送で1クール13本に当時の7000万という巨額は異例でした。 しかし結果として、ウルトラQは大成功を収めました。 超常現象や怪獣、宇宙人が出るある意味オカルト的なSFドラマであったのに関わらず、ほとんどの放送でなんと30%台を上回り、レコードも関連商品も全て大ヒットし、第2クールも決まりました。
 こうしたウルトラQの大成功を元に、打ち出された期待の新作がウルトラマンでした。
もはや説明も要らないウルトラマンシリーズですが、当時から現代に至るまで世界中の大人、子供に愛されています。最近ではウルトラQのリメイクとしてCGを活用した「ウルトラQ dark fantasy」 も放送されていました。

 ウルトラマンとして、世界中でいまだに人気を誇るウルトラシリーズですが、ウルトラシリーズの歴史は円谷英二の壮絶な歴史でもあると思います。 映画界の異端児として部下のいない一人だけの部署に配属した事もありましたが、映像に対する前向きな意欲と独創心は感動すら覚えます。 もういよいよ年末ですが、昔を思い出して、少しノスタルジックな映画で考えさせられる夜もいいかもしれません。

ウルトラQ カネゴンの繭

ウルトラQ 第1話 ゴメスを倒せ!

おまけ 快獣ブースカ 第一話 「ブースカ誕生」

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